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「中国語と近代日本」-知らなかった中国語教育の歴史

このブログのコメント欄にも、たびたび登場して下さる落水狗さんより、貸していただいた新書。
「中国語と近代日本」(安藤彦太郎著、岩波新書、1988年)。


中国語と近代日本 (岩波新書)中国語と近代日本 (岩波新書)
(1988/02)
安藤 彦太郎

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中国語教育という側面から、日中関係史をつまびらかにしていくのだが、これが目からウロコ。

そもそも、今や中国語学習者は200万人を突破していると言われているのに、中国語教育がどんな経緯をたどって今日にいたるか、世間的にほとんど知られておらず、それを丁寧に教えてくれるということが目からウロコの一点目。

さらには、日中関係における日本人の「中国認識の二重構造」という問題を、中国語教育史の流れのなかで、ものすごく分かりやすく説明してくれているということが二点目。

論旨が明快で非常に腑に落ちるものだけに、私、なんでいままでまったくこういう議論を耳にしたことがなかったんだろうと、不思議に思ったくらい。日中関係論および日中関係史は、正面から論ぜようとするとあまりに膨大な感じがしてつかみにくいんだけれど、中国語教育という一点に絞り込み(著者ははじめから中国語教育に論じたかったのであるけれど)、そこから覗いてみた答えというのは、全体を照射しつつ個別具体的で、分かりやすいのです。



簡単にポイントを紹介してみると。

■日本における中国語教育というのは、奈良時代にほぼ成立していたといわれる漢文訓読法の流れがメーンストリームで、それは鎖国政策をとり、長崎の出島でわずかに中国との交易にあたるのみで実際の中国人との往来がなかった江戸幕府の支配下で、儒教の古典である漢籍の学習として隆盛を極め、やがて近代にいたり帝国大学での保守的な高等教育としての漢学科となったが、荻生徂徠などの例外を除き終始目読主義であり、漢学を修めた人が中国語を話せないという状況は当たり前であった。

■一方、会話としての中国語(支那語)は、江戸時代はわずかに、長崎出島の通訳「唐通事」が南方発音中国語を、技術として一子相伝で受け継いでいたばかりであり、近代以降、日本の大陸進出に伴って、必要にせまられて会話を教える学校なども出てきたものの、世間の支那語への評価は「俗語」などと称されるほど低く、また、一部の志ある人たちを除き、学習者の方も、商用もしくは軍用といった目先の目的に動機づけられており、中国への包括的な興味や理解には繋がらなかった。

■両者があいまって、近代日本には中国の古典には興味があるが、現代(近代)中国には関心がない、さらに言えば見下しているという(=〝現実への軽侮と古典への尊崇〟)という状況が生み出され、これを筆者は「中国認識の二重構造」と呼んだ。

という感じになりましょうか。

筆者は、「日本人にとって、『論語』や唐詩は自国の古典と同じなのに、康有為や五四運動など近代の人物や事件はほとんど知らず、古典は漢文読みする一方で、中国語は『特殊言語』扱いだった」と言い、そのために、たとえば「中国に旅行して気にくわぬことに出会うと、やっぱりシナは、となるが、感心したものを見ると、それが新しい中国に特有な事象であっても、さすが伝統文化の国だ、といって旧い価値観で解釈してしまうのである」と喝破しています。


まさに、それって私?

とドキリとする指摘。筆者が指摘したのは、近代日本の状況なのだけれど、現代でもまだまだ当てはまってしまう。そういう意味で中国認識の二重構造が日中関係に及ぼしている影響は現在でも大きいと言えるのかもしれません。


   ■   ■   ■


ところで、私自身は、漢文訓読法は漢文訓読法でもいいんじゃないかという気がしているのですが、というのも、それは外来文化を勝手に自己流にアレンジするある意味日本文化の精神そのものであり、筆者の言わんとするところは、外来語(主として英米語)のカタカナによる変形直輸入にも通じるところがあるんじゃないかと思うから。カタカナの便利さは捨てがたく、それは、中国の古典が当時の最高の教養だった日本人にとっても、翻訳を介さず原典に当たれる訓読法って便利!って感じだったんじゃないかなと。

脱線しますが、以前知り合いになったインド人に、「日本のカタカナはすばらしい!」と言われたことがあります。
なぜかというと、外国で流行っている先端の知識を、自国語に翻訳しなおすという手間をとらずにどんどんと輸入できるから。「だから日本人はこんなに急速に発展することができたのです」と言われ、なるほどなあと思った次第。漢文訓読法もそれに近かったのではと思います。

ただ、筆者の言うとおり、漢文訓読法では実は中国語文法の微妙なニュアンスの違いが正確に把握できないという欠点もあり、さらに、実際に両大陸の行き来が活発になった現代においては、中国の古典世界観と現代世界観の間に断裂を生むという意味で、やっかいな代物であるという側面は否めないと思います。


   ■   ■   ■


そのほか、戦時中国語などについても考察されており、とっても興味深い。
アンポンタンが「王八蛋(ワンバーダン)」だったなんて知ってました?
ポコペンは「不够本(ブゴウベン)」(=元手に足りないの意)なんだけれど、それは戦時中に日本人が中国人の商店から商品をものすごく安いお金を置いて持って行ってしまい、それを中国人商人が「不够本!」と言いながら追っかけたところから来ているとか。

全体を通読して、日本の近代中国への蔑視が言い訳できないほどにくっきりと浮かび上がってくるというのも読みどころのひとつかと思います。


さて、この本、新書でよくある竜頭蛇尾なところがなく、くどくどとした重複もなく、貴重な情報がぎゅっと詰まっている感じで、かなりの良書。

特に中国語をかじったことがある人、外国語大学出身者などは興味倍増間違いなしです。




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