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「中国語と近代日本」-知らなかった中国語教育の歴史

このブログのコメント欄にも、たびたび登場して下さる落水狗さんより、貸していただいた新書。
「中国語と近代日本」(安藤彦太郎著、岩波新書、1988年)。


中国語と近代日本 (岩波新書)中国語と近代日本 (岩波新書)
(1988/02)
安藤 彦太郎

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中国語教育という側面から、日中関係史をつまびらかにしていくのだが、これが目からウロコ。

そもそも、今や中国語学習者は200万人を突破していると言われているのに、中国語教育がどんな経緯をたどって今日にいたるか、世間的にほとんど知られておらず、それを丁寧に教えてくれるということが目からウロコの一点目。

さらには、日中関係における日本人の「中国認識の二重構造」という問題を、中国語教育史の流れのなかで、ものすごく分かりやすく説明してくれているということが二点目。

論旨が明快で非常に腑に落ちるものだけに、私、なんでいままでまったくこういう議論を耳にしたことがなかったんだろうと、不思議に思ったくらい。日中関係論および日中関係史は、正面から論ぜようとするとあまりに膨大な感じがしてつかみにくいんだけれど、中国語教育という一点に絞り込み(著者ははじめから中国語教育に論じたかったのであるけれど)、そこから覗いてみた答えというのは、全体を照射しつつ個別具体的で、分かりやすいのです。



簡単にポイントを紹介してみると。

■日本における中国語教育というのは、奈良時代にほぼ成立していたといわれる漢文訓読法の流れがメーンストリームで、それは鎖国政策をとり、長崎の出島でわずかに中国との交易にあたるのみで実際の中国人との往来がなかった江戸幕府の支配下で、儒教の古典である漢籍の学習として隆盛を極め、やがて近代にいたり帝国大学での保守的な高等教育としての漢学科となったが、荻生徂徠などの例外を除き終始目読主義であり、漢学を修めた人が中国語を話せないという状況は当たり前であった。

■一方、会話としての中国語(支那語)は、江戸時代はわずかに、長崎出島の通訳「唐通事」が南方発音中国語を、技術として一子相伝で受け継いでいたばかりであり、近代以降、日本の大陸進出に伴って、必要にせまられて会話を教える学校なども出てきたものの、世間の支那語への評価は「俗語」などと称されるほど低く、また、一部の志ある人たちを除き、学習者の方も、商用もしくは軍用といった目先の目的に動機づけられており、中国への包括的な興味や理解には繋がらなかった。

■両者があいまって、近代日本には中国の古典には興味があるが、現代(近代)中国には関心がない、さらに言えば見下しているという(=〝現実への軽侮と古典への尊崇〟)という状況が生み出され、これを筆者は「中国認識の二重構造」と呼んだ。

という感じになりましょうか。

筆者は、「日本人にとって、『論語』や唐詩は自国の古典と同じなのに、康有為や五四運動など近代の人物や事件はほとんど知らず、古典は漢文読みする一方で、中国語は『特殊言語』扱いだった」と言い、そのために、たとえば「中国に旅行して気にくわぬことに出会うと、やっぱりシナは、となるが、感心したものを見ると、それが新しい中国に特有な事象であっても、さすが伝統文化の国だ、といって旧い価値観で解釈してしまうのである」と喝破しています。


まさに、それって私?

とドキリとする指摘。筆者が指摘したのは、近代日本の状況なのだけれど、現代でもまだまだ当てはまってしまう。そういう意味で中国認識の二重構造が日中関係に及ぼしている影響は現在でも大きいと言えるのかもしれません。


   ■   ■   ■


ところで、私自身は、漢文訓読法は漢文訓読法でもいいんじゃないかという気がしているのですが、というのも、それは外来文化を勝手に自己流にアレンジするある意味日本文化の精神そのものであり、筆者の言わんとするところは、外来語(主として英米語)のカタカナによる変形直輸入にも通じるところがあるんじゃないかと思うから。カタカナの便利さは捨てがたく、それは、中国の古典が当時の最高の教養だった日本人にとっても、翻訳を介さず原典に当たれる訓読法って便利!って感じだったんじゃないかなと。

脱線しますが、以前知り合いになったインド人に、「日本のカタカナはすばらしい!」と言われたことがあります。
なぜかというと、外国で流行っている先端の知識を、自国語に翻訳しなおすという手間をとらずにどんどんと輸入できるから。「だから日本人はこんなに急速に発展することができたのです」と言われ、なるほどなあと思った次第。漢文訓読法もそれに近かったのではと思います。

ただ、筆者の言うとおり、漢文訓読法では実は中国語文法の微妙なニュアンスの違いが正確に把握できないという欠点もあり、さらに、実際に両大陸の行き来が活発になった現代においては、中国の古典世界観と現代世界観の間に断裂を生むという意味で、やっかいな代物であるという側面は否めないと思います。


   ■   ■   ■


そのほか、戦時中国語などについても考察されており、とっても興味深い。
アンポンタンが「王八蛋(ワンバーダン)」だったなんて知ってました?
ポコペンは「不够本(ブゴウベン)」(=元手に足りないの意)なんだけれど、それは戦時中に日本人が中国人の商店から商品をものすごく安いお金を置いて持って行ってしまい、それを中国人商人が「不够本!」と言いながら追っかけたところから来ているとか。

全体を通読して、日本の近代中国への蔑視が言い訳できないほどにくっきりと浮かび上がってくるというのも読みどころのひとつかと思います。


さて、この本、新書でよくある竜頭蛇尾なところがなく、くどくどとした重複もなく、貴重な情報がぎゅっと詰まっている感じで、かなりの良書。

特に中国語をかじったことがある人、外国語大学出身者などは興味倍増間違いなしです。




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「堀田善衞上海日記」―永遠に失敗を続ける対中政策

昔の人が日記を記したとしたら、今はブログということになるのでしょうか。
が、振り返ってみるに、私のブログにはこれほどの人間模様も時代の空気もなく、作家の書くも日記は違うなあと。(あたりまえだ。)


というわけで、昨日読了は「堀田善衞上海日記―滬上天下一九四五」。


堀田善衛上海日記 滬上天下一九四五堀田善衛上海日記 滬上天下一九四五
(2008/11/05)
堀田善衛

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外務省の外郭団体職員として上海で終戦を迎えた若かりし堀田善衞(27歳)が、その後国民党宣伝部に徴用されながら、1945年8月~帰国2か月前の1946年11月まで断続的に3冊のノートに書きつづった日記をまとめたもの。

堀田の眼を通して客観的に描かれた混乱と騒乱のある種の熱気のさなかにある上海と、帰属すべき国家を失い、ぼんやりとした絶望感に沈む根なし草のような作者、および在中日本人の精神状態が対照的で興味をひかれます。

一方で、根底には「どうにでもなれ!」というような破滅願望的な怒りに似た情熱も見え隠れし、それがのちに堀田の妻となるN女史とのダブル不倫恋愛に結実されている様も裏ストーリーのように読めて面白い。

戦後の日本文化の勃興は、敗戦で価値観が一転したことにより、「どうにでもなれ!」と破れかぶれになった人たちの狂い咲きみたいな印象があります。だから絶望が希望に転じた迫力とがむしゃらさが出る。
この日記が書かれたころは、まだ希望に転じる前の潜伏期で、堀田自身もお金はなく、インフレはすすみ、時間だけがあるという状況の中、自分がすべきことについて、すべきことなどないのではないか?という選択肢も含めて揺れていて、戦後の出発点を1人の人間の思索を通して垣間見るようでもあります。


事実、この後にかかれた「上海にて」で書いている思想信条的傾向と、この日記からうかがえる当時の彼の考え方には、微妙な差異も見られ、たとえば中共に対する見方も、日記の方では思い入れのない、むしろ終戦を迎えても結局内戦に終始するおろかな人たちとでも言いたげな記載なのが、「上海にて」になると、その成立の必然性を肯定するように変化していきます。


それだけ、日記が書かれたころは、まだ「敗戦」の衝撃で厭世的になりはしても、自身と中国のかかわりについて考えを積み重ねてはおらず、逆に戦争中の愛国的心情というものが意識下に刷り込まれていたともいえるかもしれません。


ただ、そのような状況にあっても、直観的な鋭さで日中の未来を予測しているような箇所もあり、たとえば、1946年8月の日記には、「恐らく日本は中国問題については永遠に失敗しつづけるであらう。特に一応直接中国と遮断された次の世代は、今迄とは全く別な形式で同じ事態を失敗してゆくであらう」などという予言めいた言葉には、これって、今の日中関係のこと言い当ててる?と思いたくなってしまいます。



この日記の巻末についた、数編のエッセイの中で、堀田は日本の対中政策の最も大きな失敗として、それが「人性」を無視して行われて来たことを挙げています。「政策遂行の名の下には人性を無視することも亦許されると観念したところにあったのではなからうか」と。

そして彼の視線は、戦争中対日協力をしたとして戦後一貫して同胞の中国人から糾弾され続けている「漢奸」と呼ばれる人たちに向いてゆきます。引き上げ後に書かれた文章で「日本の行動と行を共にした東方諸国の諸人士に対する謝意謝罪、「済まなかった」という、政治を超えた素直な情意の充分な表現が未だに見られぬということについての、どうにもならぬ憤懣」を表し、その原因について「要するに(日本人が)薄情なのだ」と結論づけていて、思わずうなってしまいます。

この日記の本文中にも日常風景的に登場する人物たちが、脚注において「その後暗殺された」「懲役3年の刑に服した」「中華人民共和国下で12年間獄中にあった」などと記されること累々。

日記中には、南京政府系の国民党員が「ぼくら第三種人はゆくところもない。(中略)日本は負けるべきぢゃなかつたんだ」と気持ちを吐露する場面なども出てきていて、未来を悟っているようで悲しい。



日本の対中政策は血が通っていなかった点において、徹底的に失敗でした。
堀田は、ポツダム宣言受諾後の騒乱状態の上海を、殺されてもよいつもりで見に行きます。
中国人の群衆の歓喜の様子を見、彼ははっきりと、「『中日親善』『同甘同苦』『同生同死』などといふ標語はつひに決定的な空疎な標語にすぎず、中国民心は絶対に日本の『対華政策』にも『対華新政策』にも同意していないといふことであつた』と悟ります。

曰く「よくもかかる民心の把握の全く出来ていない政治、外交を今日までやって来たものとむしろ呆れざるをえない」。


振り返って現在はどうか。

堀田は死を覚悟して明らかに日本人と分かる格好で騒擾を見に行ったにもかかわらず、無視されるがごとく「何事もなかった」と言います。

失敗を通り越して、関心すら持たれなくなる。



なにやらそら恐ろしいばかりではありませんか。



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近づけば違いが気になる

今更ながら中国、もしくは日中関係に関する不勉強に冷や汗をかき、にわか読書するもさらなる蒙昧に落ち込み嘆息しているろば子です。


本日読了は以下。

「伝説の日中文化サロン 上海・内山書店」(太田尚樹著、平凡社新書、2008年)

伝説の日中文化サロン上海・内山書店 (平凡社新書)伝説の日中文化サロン上海・内山書店 (平凡社新書)
(2008/09)
太田 尚樹

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「上海にて」(堀田善衞著、集英社文庫、2008年)

上海にて (集英社文庫)上海にて (集英社文庫)
(2008/10)
堀田 善衛

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両方とも戦中~終戦~戦後の上海在住日本人にまつわる本。
前者は、著者の目から見た内山完造を中心とする日中の交流が時系列に過不足なく記され、当時を知るための入門書として手ごろ。
後者は終戦まぎわから直後にかけ、上海に1年9カ月滞在した1人の作家が、戦後1957年に中国を再訪した際に、当時を回想するという形でかかれたエッセイというか日中、および中国に関する考察を述べたもので、その見識は今でも多いに納得させられるところがあります。



前者は、内山完造とその妻美喜の、魯迅や郭沫若といった中国文化人とのつきあいの中に見せる人間的魅力に感心するし、日中の差異なんてものともしない国を超えたヒューマニズムに同じ日本人として感謝をせずにいられないけれども、そのために却って、こういう人材の少なさ、特殊さに目がいってちょっと寂しくなります。


堀田善衞の方は、彼の考えのうち、以下の2点に特に注目。

「侵略戦争を経た後の、日本と中国の心と心の問題のうちの、もっとも微妙で、もっとも解決困難な問題」として、南京を戦後訪れた日本人団体とそれを案内した中国人の間で、暗黙の了解として“あのこと”には触れずに過ごし、しかしそのことが中国人側になんとも言えない虚しさを残したという、かつて読んだ新聞記事の内容に触れた箇所。

堀田善衞はしかし、「それを日本人の側から、積極的に言っても、ことばはわるいが、実ははじまらぬのである」という。それを「歴史の不可逆性の恐ろしさ」と呼び、さらには「われわれの握手の手と手の間には血が滲んでいる」と突きつけてきます。

戦争の記憶がまだ人々の実体験として存在する中で書かれた文章だけに、問題意識が鮮明であり、そのことに今更ながらハッとしてしまう。(もっとも、彼はその感覚が戦後10年で確実に風化しつつあることを上海で発見して驚くのだけれど)

最近日中に横たわる「戦争」という項目を、過ぎ去った過去のことと(勝手に)みなしつつあった自分に気がついて唖然。



もう一点は、「同文同種などという虚妄のスローガンに迷わされてはならない。中国は外国でなのであり、中国人民は外国人なのだ」という考え。形を変えて繰り返し出てくる認識。

やはり、日中関係って、ほかの国との間にはない間合いの難しさがあるなあと思う。


似ていると錯覚しているけど、ものすごく違うっていうところが、いろんな物事への認識を誤らせてしまうのかも。




関係ないけれど、張芸謀監督の映画「活着(活きる)」と黒澤明監督の「生きる」って、同じようなタイトルなのに、中国と日本じゃ、「いきること」の意味が全然ちがってる。

黒澤監督のは、ただ漫然と生きながらえているのは生きているとは言わず、何かのために人生をかけて懸命になってこそ「生きる」ということなのだという割と観念的なとらえかた。

張監督の場合、どんな理不尽な、どんな最悪なことが起きても、とにかくいきて、いきて、いきのびるんだ。それが活きるということだという、ものすごく単純で根源的な考え方。


黒澤監督の生きる意味が日本的な普遍性を持つかどうかはさておき、「活着」の主人公の生きざまは、まさに中国的で、この、日本人にとっては違和感すら感じる中国の根源的な力強さというようなものについては、堀田善衞も再三言及していますが、私たちが中国を眺めるときに忘れてはいけない特徴のような気がします。



蛇足ですが、「活きる」は内容に問題があるとして、中国国内の映画館では上映できないのだそう。
張芸謀監督がトゥーランドットとかやるようになるはるか昔の秀作です。




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芥川龍之介も思った。

昨日、中国の観光地のことについて書いたのですが、面白いことに、時代が違っても同じような感想を抱く人がいるもので、それがなんとかの文豪・芥川龍之介。

ということを、「特派員 芥川龍之介―中国でなにを視たのか―」(関口安義著、毎日新聞社、1997年)の中で発見し興味深い。


特派員 芥川龍之介―中国でなにを視たのか特派員 芥川龍之介―中国でなにを視たのか
(1997/01)
関口 安義

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芥川龍之介と中国といえば、彼が子供のころから漢籍をたしなみ、中国の古典から題材をとった作品を多数書いていることでも所縁の深さがうかがえるのですが、実際に芥川は1921年に大阪毎日新聞の特派員として中国を歴訪しています。

その120日間を中心に、芥川龍之介がどのように中国を視、中国での経験がその後の創作活動にどんな影響を与えたのかを、肯定的にとらえ、たどっていったのが本書。


なので、基本的には中国から彼が受けたよい意味での影響を描いているのですが、私が思わず、「おっ」と思ってしまうのはそういう本筋からはちょっと外れた観光地に対する芥川の印象でした。

たとえば最初に上海に入り、上海以外の訪問先として初めて訪れた杭州にて、西湖を旅したときのこと。
初日は夜に到着したため、月に照らされる幻想的な西湖に感嘆する芥川なのですが、翌日以降、船で湖を回ったりするうちに、「龍之介は次第にこの湖に反感を持つようになる」と著者は書きます。

水は淀み、湖畔には赤と灰色の風景ぶち壊しのレンガ建て。
あちこちに、古典書物の世界では当然描かれていなかった西湖の俗化を見てとり芥川は失望するのです。

いわく、「繊細な自然に慣れている日本人には不満」と。


その不満は、それ以降の数々の観光地にてどんどん降り積もり、最後には彼に、この国に対して「愛したくても愛し得ない」とまで言わせしめてしまうのです。


わかる。
わかるわ~。
その不満。



著者が指摘するに、彼が心の中で温めてきた中国文化へのあこがれのの気持ちが深かったために、現実を見てすっかり裏切られた気持ちになったのだと。


本書の中では、芥川が紀行文に書いたこのくだりに対して中国の大作家巴金の反論をを紹介しているのも面白く、要約すると、日本には音楽だって絵画だってまともな芸術作品がないじゃないかと。芥川の小説そのものだって形式があるだけで中身がない。「真の芸術家の重大な使命は、人類を結びつけることである」だって。




この両者のすれ違いは、まさに今日でも立派に通用する日中の差異の象徴でもあります。


名所旧跡を観光した芥川の違和感は、私たちが今旅行先で感じる違和感そのものであり、巴金の主張は、それに対して中国人が感じるであろう「ささいなことを」的な反応。


ちなみに、同書の中で、芥川は洛陽の龍門石窟については礼賛しているのだが、それこそ洛陽旅行に行ってきた私もかなり同意するところ。


つまり。
中国の観光旅行先で感じる、物足りなさというか、逆になんかこれトゥーマッチだよとか、これはないだろうとか、そういうのは、単に戦中、戦後の混乱の時期を経たから醸し出されるわけではなく、両国の文化の違いにも由来するんだなというのが、本書を読んでの新たな発見でした。


(が、本書のメインはあくまで、芥川が中国情勢をどう視て、それが彼の小説にどう反映されたかというところなので、そういうところに興味がある人は、どうぞこの本を手にとってみてください。)



中国を旅行して、いいな!と感じる名所旧跡は、だいたいにおいて石の建築物。
もしくは石そのものとか。
すなわち、自然そのものがなす絶景。
それか、規模が島国日本では考えられないほど大きいもの。=マクロ。


その反対に、ミクロなものはなんか駄目。
おおざっぱ過ぎて。
もちろん、昔のものには、こんな入り組んだ象牙の彫、どんな手があったら作れるんだ!!と思うような、すばらしく器用で繊細な工芸もあります。
でも、日本にもあるようなたぐいの建築物や物は、なんか保存、展示の仕方も含め、微妙。


だから、旅に行くならなるべく、日本では見られない規模のものを見に行くべきだというのが私の結論です。
この大きな大陸に、せせこましい尺度を持ち込んで一喜一憂してもどうにもならないのですから。
とまあ、自戒を込めて。


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この国に足りない人材





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首都における文化財損失の歴史を告発―「北京再造」

一見すると重厚で難解そうな都市計画についての学術本。
日本円で4830円という価格もさることながら、上下二段418ページという長さと豊富な図録に、ひるんでしまう人がいるかもしれません。
だが読み進めると、政治、人間ドラマ、首都の移り変わりと、さまざまな角度から味わえるノンフィクションだということがわかってくる――。

というのが、今回取り上げさせていただく『北京再造―古都の命運と建築家梁思成』(王軍著、多田麻美訳、集広舎、 2008年)。

北京再造―古都の命運と建築家梁思成北京再造―古都の命運と建築家梁思成
(2008/11/08)
王 軍

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24日、市内朝陽区「サロン・ド・千華」で開かれた第4回茶旅読書会にて、同書の“読みどころ”を、翻訳者の多田麻美さん自ら語ってくださいましたので、ご紹介します。
当日はのどを痛められたということでマスク着用の上でしたが、ハスキーボイスに熱を込め話される様子に、同書の翻訳者としてだけではない、北京の街への並々ならぬ愛着を感じました。

       多田さん


  
   ■    ■    ■


同書は、中国の建築学者梁思成が1950年代に提出した古都の景観を保存する都市計画プランを振り出しとし、それがどんな時代背景の中、どのような論争を経て、譲歩、敗退を余儀なくされ、現代の北京にいたるかを描いたもの。

著者は、新華社通信の記者で、現在は同社の発行する雑誌『瞭望』のデスクを務める王軍氏。
10年に渡る取材を、梁思成生誕100年を機にまとめ、2003年に出版しました。

全編を通じて、綿密な取材に基づく客観的資料によって構成されているのですが、その行間から滲む王氏の批判精神が中国の建築界のみならず、政治の矛盾をも照らしだし、読者を過ぎ去った時代へと引き込みます。

   
「王軍さんの取材動機は、どうして北京が今のような形になってしまったのか、ということなんです」と多田さんは言います。


オリンピックの際に、北京の古い町並みである胡同の取り壊しをめぐって地元住民が抗議する様が報道されたのは記憶に新しいのですが、乱開発の動きは今に始まったことではないそう。元・明・清代と続いた都の建築遺産は、解放後のわずか50年で相当部分が失われてしまい、梁思成が半生をかけて保存を訴えた旧城の城壁に至っては、ほとんどが跡形もなく破壊されてしまったといいます。さらに現代では、都市計画の不備によって引き起こされた交通渋滞や水資源、大気汚染の問題も深刻。


「そこで、90年代に梁思成再評価の動きが起きたんですね。現在の北京の発展の方向性は、梁思成のプランに近くなってきています。彼の都市計画が、現状の問題にリンクしているからでしょう」。


同書には、北京の古建築が「大躍進」や「文化大革命」といった政治の荒波の中、再三再四翻弄されていく様が浮き彫りにされています。破壊は政治の指導であり、それは今日では誤ちだったと認識されているということを、王軍氏は事実の積み重ねで指摘していくのです。

「文化財を扱いつつ、政治の問題をも描いている本なんです。かなりタブーギリギリのところで書いていると思います。王軍さんも『90年代だったら出せなかった』とおっしゃっていました」と多田さん。いわば、古都の文化財がどのような状況に置かれてきたかを告発する本でもあるのです。
出版後は、昔を知る北京の市民らから「よくぞ言ってくれた!」という絶大な支持を受け、現在は9刷を重ねているそうです。


   ■    □    ■


多田さんが、王氏に出会ったのは2003年、王氏の講演会の場だったそう。
「こわされていく建物に対して、『こわすべきでない』と大胆に発言していました。勇気があるなと、個人的魅力がある人だなと思いました」との印象だったとか。

著作も読んでいて訳したいと思っていたところに、日本の出版社から翻訳を持ちかけられ、わずか4か月で完成。「王軍さんの熱意にあてられたというか、後押しされたという感じです。もともと胡同について書いたりしていて、関心のある分野だったので、つらいとは思いませんでした」と多田さん。

それでも、同書の内容には翻訳しながら、つらくて何度も涙を流したそうです。

「特に文化大革命の時代の記述で、どこそこの橋が壊された、門が壊されたとリストが並んでいるんですが、読んでいてここまでひどかったんだと、圧倒されて涙が出てきました。それから、壊していた城壁の中から元代の城壁が出てきたと聞き、病床の梁思成が妻に写真をとってきてほしいと懇願するシーンなどもつらかったですね」。


同書では、絶望的な状況の中、それでも古都の文化財を少しでも残そうと奮闘し続ける梁思成が、文化財の破壊に際し涙する姿を第三者の証言を通して何度も描いています。王氏は、梁思成の人物像を人間味溢れる筆でとらえることで、その喪失感を人類共通の痛みとして伝えることに成功しているように見えます。


  ■    ■    □


ところで、梁思成は、中国においては、初めて古建築に価値を認めて定義した人として非常に有名。しかし、日本では、検索してもほとんどひっかからないという知られざる存在です。

が、実は日本とは深いゆかりがあるといいます。

多田さんいわく、「太平洋戦争の際、梁思成は米軍が日本本土を空爆するにあたって、奈良・京都などの保護すべき文化財を記した地図を作製し、日本の古都を戦災から守ったのだそうです。このことは生前は口外しなかったそうですが、2度目の妻が証言しています」。

梁思成はなんと、1901年東京生まれ。父はあの思想家の梁啓超で、戊戌の変法が失敗に終わったあと日本に亡命し、そこで生まれたのが梁思成なのだそうです。1912年には中国に帰国しますが、幼い頃両親に奈良に連れて行ってもらった思い出などが本人の文章として残っていると、同書の日本語版序でも触れています。

「おそらく日本で子供のころ古建築を見たのが、梁思成の建築学の基礎となっているのでしょう。『日本の建築には中国の建築で失われたものが残っている』と言っていたそうです」と多田さん。


「そういう意味で、日本語版の出版は画期的。ある程度日本のみなさんの参考になるのではと喜んでいます」。




失われゆく文化財の記録と見るか、都市計画をめぐる人間ドラマと見るか、はたまた一つの裏政治史と見るか―。まだごらんになっていない方、ぜひ本書を紐解いてみてください。


※王軍氏のブログ「城市的眼睛」


※「サロン・ド・千華」
 住所:北京市朝陽区関東店南街2号 旺座中心西塔501 
 電話:5207-8030



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